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HMV 97MAY-JUNE ISSUE57 文/林陽子<ロッキング・オンJAPAN>
情念のように激しく、子守歌のように優しく……。人を愛する”生身の叫び”が刻み込まれたCoccoのデビュー・アルバム『ブーゲンビリア』は鮮烈な衝撃をもって耳に突き刺さる。
hmv97may-june57写真 たとえば、浮かれた雑踏で溢れかえる休日の遊園地、両親とはぐれた小さな子供が声を限りに泣き叫んでいる。あまりにも悲痛なその声に誰もが思わず足を止めて振り返る。カップルの片割れが、恋人の前でいいとこ見せようとでも思ったのか、心配げに声をかけたりする。「どうしたの? 迷子になっちゃったの?」。でも決して子供は泣きやまない。それどころか誰より激しく火がついたように泣きじゃくる。<だって、私が探してるのはあなたなんかじゃないもの。私がこんなに呼んでいるのはあなたじゃないんだもの。私がとても愛している、私をとても愛してくれる、私がこんなに呼んでいるのはあなたじゃないんだもの>。――Coccoの歌声を聴いて私が思い浮かべるのはこんな光景だ。彼女の歌はそんな子供の泣き声のように、切実に、真っ直ぐで、痛い。
 昨年のインディー・デビュー時から、Coccoの鮮烈な歌声と生々しい歌詞、そして、ビデオ・クリップで目の当たりにできる、狂気を孕んだようなギリギリの表情で歌う姿は、「一体何物!?」とかなりの話題を集めていた。実際、このところ、ある種ブームとも呼べるくらい女性ヴォーカリストが数多デビューしている中で、彼女が希有な存在感を漂わせていたのは確かだ。そして、その鮮烈な存在感は、アラニス・モリセットやPJハーヴェイ、あるいはCHARAやUAという先輩の女性アーティストたちと比較されることもままあった。だが、彼女はそういう比較の中には収まらない個性をもっているということが、ついに発売される初のフル・アルバム『ブーゲンビリア』ではっきり証明されている。アルバムを通して聴けば――情念の塊のような激しい歌も、懐かしい子守歌のような優しい歌も全て――彼女が歌っているのはどこかにある愛憎の物語ではなく、はっきりと彼女自身がある人を求め、想い、絶望し、それでも愛する、生身の叫びだということがよくわかる。
 彼女自身「自分から出てきた言葉を自分の言いたいようにそのままやるのに、一番てっとりばやいのが歌だったから」と言う。そして、彼女固有の表現欲求は、20歳にしては特異なほどの<生>の実感に裏打ちされているからこそずっしりとしたリアルさをたたえている。
 「こっこはね、いつ死んでも後悔しないようにって思ってるの。人は当たり前に生きてて奇跡的に死ぬんじゃなくて、奇跡的に生きててあっけなく死ぬんだなってある時思ったから。だから―もう毎日に感謝(笑)。そりゃ生きてるから死ぬし、形あるものは壊れるし、だから形あるうちに愛したい、って思う。歌うのも、CDとかで残したいっていうより、そういう自分の営みっていう感じ」。そう、彼女自身が言うように、彼女の歌は「音楽のための表現」ではなく「生きるための、自分自身のための切実な表現」だから、聴き手に刺さる。この才能の原石は今、その輝きをあらわにし始めたばかりだ。